セミラミス
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この項目では、アッシリアの伝説上の女王について説明しています。

イタリアのプログレッシブ・ロック・バンドについては「セミラミス (バンド)」をご覧ください。

『九人の英雄と九人の女傑』(壁画のセミラミスの箇所を拡大)、イタリアのサルッツォのマンタ城サーラ・バロナーレ所蔵

セミラミス(Semiramis、アラム語: Shamiramシャミーラム)は、紀元前800年頃[1]アッシリアの伝説上の女王。モデルは紀元前9世紀アッシリアの王シャムシ・アダド5世の王妃でその子アダド・ニラリ3世摂政を務めたサンムラマートで、ギリシャに渡ってセミラミスとなった。[2][注 1][注 2]
概要セミラーミデ女王1905年、画家チェーザレ・サッカージの作品

伝説によれば、美貌と英知を兼ね備えていたとも、贅沢好きで好色でかつ残虐非道であったとも伝えられる。

世界の七不思議の一つ「バビロンの空中庭園」を造らせたといわれる[3][4]シリアの魚の女神アシュケロンのデルケトー(英語版)(別名アタルタギス)と、とあるシリア人との間にできた娘であるとされ(デルケトーと交わったのは河の神カユストロスという説もある)、幼くして捨てられ、鳩によって育てられた。「セミラミス」はアッシリア語で「鳩」[5]を意味する。

成長した後、ニネヴェの都を築いたアッシリア王ニヌスに寵愛され、息子ニニュアス(Ninyas)を産んだ。また「ニヌス王はセミラミスに毒殺された」という伝説が残っており、これは伝説に残っている最古の毒殺事件といわれている。こうしたセミラミスにまつわる伝説は、ヨーロッパでは演劇やオペラの題材として好んで取り上げられることになる。

しかし最後はニニュアスによって謀殺されたとも[注 3]、神託により息子の謀反を知って彼に王位を譲り、鳩となって昇天したとも伝えられる。62歳没、在位は42年間に及んだという。15世紀初頭のサルッツォ侯爵トンマーゾ3世による著作『遍歴の騎士』では「九人の女傑」の一人に数えられる[注 4]
『歴史叢書』の記述

セミラミスの伝説について、シケリアのディオドロスが著した『歴史叢書』にまとまった記述が残っている。
出生から女王になるまで『Semiramido hranijo golobi』、スロベニアの画家フランツ・カーシグ(英語版)による1810年の作

彼女の母デルケトー[注 5]は、あるときアフロディーテ[注 6]の怒りを買ったため女神の若い信者に情愛を抱く呪いを掛けられる。若い信者と関係を持ったことを恥じたデルケトーはその信者を殺し、シリアで生んだ赤子を岩砂漠に放置してアシュケロン(都市)の近くの湖に身を投げたのだった(この後、デルケトーは人面魚の女神となりシリアで崇拝される)。

岩砂漠に捨てられた赤子は、多くの鳩が体を温めたり、ミルクやチーズを運んできたりしたため生きながらえることが出来た。ある日、人々はチーズがあまりに齧り取られていることを不審に思って、周囲を探したところ美しい赤子を発見した。彼女は王室の羊飼いのシンマスに引き渡され、シンマスには子がいなかったので彼女を娘のように世話して「セミラミス(シリア語で鳩の意)」という名を与えた。彼女が成長した頃、アッシリア王室の裁判所から来たシリア総督のオンネスの目に留まり、彼と結婚する。二人は首都ニヌス(ニネヴェ)で暮らし、ヒュアパテス(Hyapates)とヒュダスペス(Hydaspes)の二児が生まれた。オンネスはセミラミスの美貌と才能の虜となり、彼女の助言の通りに行動したので物事が全て上手くいった。

その頃、アッシリアの伝説的な王ニヌスは彼の名を冠した都市を作り終えたので、バクトリア国(現イラン北東部などを含む地域の古名)に再び侵攻した。バクトリアの首都のバクトラの包囲が長引くと、オンネスは妻が恋しくなり彼女を陣営に呼び寄せた。彼女は後々のことを考えて男女の判別が出来ないような形状で、熱を遮り肌の色を隠せるような服を作り、旅に出発した。この時考案した服は利便性に優れていたため、後のメディア王国やペルシア人の間でよく使用された。セミラミスがバクトリアに到着し包囲陣を眺めると、平地や簡単に攻められる拠点に攻撃が集中し、一方で高所にある堅固な砦には誰も攻撃していないのが見て取れた。そこで岩場を登ることに慣れた兵士を連れて渓谷を通り抜け、砦の一部を奪うと平地にいるアッシリア軍に合図を送った。すると守備兵たちは高所を抑えられた恐怖から砦から逃げ去っていった。彼女の活躍に驚いた王は名誉ある贈り物をした。その後、彼女の美しさに魅了された王は、オンネスに自分の娘ソサネス(Sosane)を妻に与えるので、代わりにセミラミスを渡すように要求した。ニヌス王から同意せねば目玉を抉ると脅されたオンネスは、その恐怖と妻との愛で板挟みになり、狂気に陥って首を吊って自害してしまった。ニヌス王はバクトリアでの戦後処理を終えると、セミラミスとの間に息子のニニュアス(Ninyas)を得た後に死去し、セミラミスを女王として残した。彼女は王を宮殿の敷地内に葬り、そこに高さ9スタディオン(1.6km)、広さ10スタディオン(1.8km)の墳丘を築いた。
女王の統治と建築『バビロンを建設するセミラミス』(Semiramis construisant Babylone)、フランスの画家エドガー・ドガによる1861年の作

女王となったセミラミスはニヌス王の業績を超えるという野心を抱き、バビロニアに都市を建築することを決意して世界中から熟達した職人と200万人の男性を集めた。そうしてユーフラテス川を中心にバビロニアの各都市の周りに長大な城壁や塔、橋、宮殿や寺院を建設した。都市の中央はユーフラテス川に両断されており、西の王宮は三重の内壁に様々な動物やニヌス王とセミラミスが狩りを行う様子の浮彫が作られた。東の王宮にはニヌス、セミラミス、廷臣のほか現地でベロス[注 7]と呼ばれるゼウスのブロンズ像が立ち並んだ。東の王宮と西の王宮の間は、ユーフラテス川をくぐるバビロンの川底トンネルで結ばれた。また、ユーフラテス川とティグリス川に沿って都市を造り商人たちのための取引所を設立した。さらにアルメニアの山々から巨石を切り出しバビロニアにオベリスクを建てた。これは『歴史叢書』の中で世界の七不思議の一つに数えられている。

セミラミスは諸々の建築が終わるとメディア方面に出兵し、いくつかの公園や碑文を作らせた。シャオン( Chauon)市には長く滞在し、従軍した者の中から見目麗しい兵士を選んで交わり、後にその者らを殺したのだった[注 8]。その後、エクバタナ(現イラン西部の都市)へ向いザグロス山脈に到着すると、崖を切り崩し谷を埋めて通りやすい道路を敷き、都市に到着すると宮殿を立て治水工事を行った。そうしてペルシアとアジアの全領地を訪れては都市を築いたり、道路を整備したりした。また彼女は野営する際に、自身の宿営地に小高い丘を築かせるのか習慣で、それにより野営地全体を見渡したのだった。こうした結果、アジア全体に彼女の建築物が今日まで残り、それらは「セミラミスの作品」と呼ばれている[注 9]。その後、エジプト方面を訪れリビアの大半を征服したあと、エジプトのシワ・オアシスにあるゼウス・アモン神殿[注 10]で自身の最後について神託を求めた[注 11]。それによると「セミラミスは男達の中から消え、アジアで不滅の栄典を得る。そして息子のニニュアスが彼女に陰謀を企てるときが最期となる」というものだった。エチオピアに向い諸々の仕事が終わるとバクトラに帰還した。
インド遠征『Semiramis appelee au combat』、フランスの画家ジャック・ステラによる1637年の作。バビロンの反乱の報を聞いた場面を描いている

しばし平和が続いたことからセミラミスは戦争による領土拡大の野心を持つようになり、世界最大の国と噂のインドへの遠征を計画した。当時のインド王・スタブロベテス(Stabrobates)は彼の意のままに扱える無数の兵士と多くの象、そしてそれらを飾る素晴らしい武具を備えていた。セミラミスはインドの強大な国力を知ると、3年をかけて領土の国家に装備の充実と造船を命じた。また象に対抗し敵兵の恐怖を煽るために、極秘裏に牛の皮を縫い合わせ藁をつめた巨大な人形を作らせた。それは中に人と駱駝が入り、駱駝の力で動いたので遠目からは巨大な獣のように見せることが出来た。そうして準備が整うとバクトリアに300万の兵士と20万の騎兵、10万の戦車を集め出陣した。スタブロベテス王の方でもアッシリア方の戦争準備を聞きつけると船や象、武器の量を増やして対抗し、準備が整うと進軍中のセミラミスに使者を送り、手紙の中で彼女を攻撃者と批難し、また娼婦と罵倒して、勝利の暁には神の立会いのもと磔にすると脅した。セミラミスは手紙を読むと笑いながら「インド人は私の勇気を試すことになる」と言って取り合わなかった。遠征軍がインダス川に到着すると激しい戦闘が始まり、最終的にアッシリアが勝利を収めて、約千の小船を破壊し、多くの都市を落として10万の捕虜を獲得した。スタブロベテス王は怯えて撤退するように見せかけると、セミラミスは橋に6万を残して偽の巨象を露払いに進軍した。しかし、当初は巨象の存在に悩んだインド側も、アッシリア軍からの脱走兵の情報で巨象の偽装を知ると隊列を整え迎撃の構えを取った。スタブロベテス王は主軍の前方に騎兵と戦車を展開したが、偽の巨象が盾になり、またインドの軍馬が巨象の中にいる駱駝の匂いに怯えたため戦線が乱れ、アッシリア軍が優位に立った。そこでインド王は象を前方にして精鋭歩兵を進ませて自ら前線に立って戦ったため、象兵の猛攻によりアッシリア軍はさんざんに打ち破られた。スタブロベテス王は敵軍が総崩れになるのを見ると、セミラミスの腕に矢を命中させ槍を背中に当てたが、かすり傷だったことと象兵の足の遅さから取り逃がしてしまった。


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